大判例

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京都地方裁判所 昭和38年(わ)1094号 判決

被告人 阪口良三

大七・三・一〇生 踏切保安係

村田雅之

昭八・三・一四生 線路工手

主文

被告人阪口を禁錮壱年六月に、被告人村田を禁錮四月に処する。

この判決が確定した日から、被告人阪口に対しては参年間、被告人村田に対しては弐年間右各刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人両名の連帯負担とする。

理由

罪となるべき事実

被告人阪口は、日本国有鉄道職員として京都保線区二条線路分区に所属し、踏切保安係として、昭和三十三年八月頃から京都市中京区四条通千本西入る所在の山陰線四条踏切に勤務し、踏切警手の業務を担当していたもの、被告人村田は、同鉄道職員として同線路分区に所属し、同三十七年五月頃から線路工手のかたわら、同線路分区長の指示によりしばしば踏切保安係代務者の任務につき、前記四条踏切における踏切警手の業務を担当していたものであるが、同踏切においては、本番及び相番と称する二人の係員が協力してその業務を担当し、相番は、踏切道における列車予定時刻の約五分前から踏切道に立ち出で列車の接近を確認することにつとめ、本番は、踏切西寄り北側に設けてある保安係詰所内で、列車が踏切に接近すると電灯が消えブザーが鳴る仕組になつている列車接近表示器や、反射用鏡等により列車の接近を確認することにつとめ、それぞれ列車の接近を確認したときは、たがいに手笛等でその旨を通知し合い、且つ、本番は相番の合図により、踏切道に設置してある四条通に対する交通信号灯を青色から黄色を経て赤色に切りかえた後、踏切道の遮断機を閉鎖する措置を講ずることになつていたところ、同三十七年十二月九日午後四時三十分頃から、被告人阪口が相番として、被告人村田が本番として同踏切警手の業務にたづさわり、ともに徹夜の上翌十日朝に及んだが、同日午前七時四十七分に山陰線二条駅を発車し、約二分三十秒後に同踏切を通過する予定の梅小路行上り第三六二号列車が、その時刻を経ても通過しないので、何時同踏切に接近してくるかも知れない状況下にあつたばかりでなく、同踏切附近が折からの濃霧のためかなり視界を妨げられ、しかも、同詰所内設置の列車接近表示器が、従来再々故障を来し鳴動等の役を果さない例があつたのであるから、このような場合に、およそ踏切警手としてその業務に従事する者は、すでに列車通過の予定時刻を経過していることや、列車接近表示器の故障等のことを考慮し、相番は踏切道において、また本番は列車接近表示器の作動に注意するかたわら、前記反射用鏡を介し、もしくは直視する等して、それぞれ二条駅方面の線路上を注視するとともに、列車の警笛の聴取につとめ、列車の接近をできるだけ早期に発見し、もしくは覚知して、交通信号灯の切りかえと、遮断機の閉鎖を全うし、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、それぞれその義務を怠り、不注意にも、被告人阪口において、同日午前七時四十五分頃同踏切道に立ち出たが、前記第三六二号列車の先行上り列車が約六分遅れて通過したので、第三六二号列車の通過もまた相当遅延するものと考え、二条駅方面を注視するかたわら、右線路と交叉する四条通の交通状態を眺め廻したり、同詰所内に設置してある列車接近表示器を確めに行つたり、同詰所南側附近の路上に撒水したり等して、同列車に対する注意警戒はもちろん、その警笛にすら注意を欠き、また被告人村田において、列車接近表示器が正常に作動するものと軽信し、その作動のみに気を奪われて二条駅方面の注視を怠り、且つ同列車の警笛にすら注意を欠いた各過失により、同列車が、予定時刻より約二分三十秒遅れて二条駅を発車し、時速約五十粁で南進し、同踏切手前約百五十米の地点から断続的に警笛を吹鳴したのに、これに気づかず、同日午前七時五十二分頃、同列車が更に同踏切手前数十米に接近したとき、被告人阪口がはじめてこれを発見したため、交通信号灯の切りかえや遮断機の閉鎖等を講ずるいとまもなく、折から、島田敬一が、三輪日出生を後部座席に乗せて運転し、同踏切の東西進めの交通信号に従つて東方から同踏切道に進入してきた普通四輪乗用車の右側面に、前記第三六二号列車の機関車前部を激突させ、よつて、右島田を脳挫創により同月十一日午後二時頃同市下京区大宮通綾小路下る京都四条大宮病院において死亡させ、右三輪を頭蓋骨開放性粉砕骨折により、同月十日午前八時三十分頃同病院において死亡させたものである。

証拠の標目(略)

法令の適用

被告人両名の判示各所為は刑法第六十条、第二百十一条前段罰金等臨時措置法第三条にあたるところ、それぞれ一所為数法の関係にあるから、刑法第五十四条第一項前段、第十条によりいずれも犯情の重い三輪日出生に対する業務上過失致死罪の刑をもつて処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期範囲内において被告人阪口を禁錮一年六月に、被告人村田を禁錮四月に処し、刑の執行猶予について同法第二十五条第一項を、訴訟費用の負担について刑事訴訟法第百八十一条第一項本文、第百八十二条を適用する。

過失について

被告人両名及びその弁護人は、被告人等はそれぞれ踏切警手として、その業務上の注意義務をつくしたのであるから、過失の責を負ういわれはないと弁疏するので、その点を検討する。

まづ、本件踏切道における保安係の業務は、これを本番及び相番と称する二人の踏切警手によつて担当され、被告人阪口が相番として、また被告人村田が本番として、それぞれの業務を分担していたことは判示認定のとおりである。そこで、

(一)  相番としての被告人阪口についてみるに、被告人阪口は、本件踏切道における列車通過予定時刻の約五分前に踏切道に立ち出で、保安係詰所内における本番からの列車接近表示器の作動による合図と相俟つて、列車の接近を直接的に確認すべき注意義務を第一次的に負わされていたことが明らかである。

しかるに、被告人阪口は、本件第三六二号列車の踏切通過予定時刻である午前七時四十九分三十秒の約五分前に踏切道に立ち出で、北方線路上の監視にたづさわりながら、右通過予定時刻が遅れ、従つて同列車が何時接近してくるかも知れない状況下にあつたにもかかわらず、線路と交叉する四条通を振り返つてその左右を眺め廻したり、同詰所内に設置してある列車接近表示器の作動の有無を確めに行つたり、同詰所南側附近の道路上に撒水したり等して、北方線路上の注視をそらしたため、その間隙に接近してきた列車を目前に迫るまで発見し得なかつたのである。そのため、本番に対する交通信号灯の切りかえや、遮断機閉鎖の合図等爾後の措置をとるいとまもなく、本件列車の通過をみ衝突事故を惹き起したのであるから、たとい、その当時濃霧によつて踏切の北方に対する視界が或る程度妨げられ、他方、列車接近表示器がたまたま故障していてその作動をみるに至らなかつたため、本番からの列車接近の合図を期待し得なかつた事情が介在したとしても、被告人阪口が、本件列車接近の確認について、踏切警手としての注意義務を著しく怠つたことに少しも疑いはなく、過失の責を負うことは当然であるといわなければならない。

(二)  本番としての被告人村田についてみるに、被告人村田は、京都保線区の踏切保安係執務内規等の諸規定に従い、本件第三六二号列車の踏切通過予定時刻の約五分前に、相番である被告人阪口が踏切道に立ち出で北方線路上の監視にたづさわつた頃から、保安係詰所内所定の位置について、同詰所内設置の列車接近表示器の接近表示作動を見守つていたが、その際たまたま同表示器が故障していてその作動をみることがなく、且つ、被告人阪口からの合図によつて、その措置を講ずべき交通信号灯の切りかえや、遮断機の閉鎖も、被告人阪口から何等の合図がなかつたため、それ等の措置を講じないままで待機していたやさきに、本件列車の通過をみ衝突事故を惹き起したのであるから、被告人村田は内規等に従つて行動したものとして、踏切警手としての注意義務に欠けるところがないかのように見受けられる。

しかし、およそ踏切警手として、踏切道における交通の安全確保に従事する者は、単に、その所属する監督者等によつて定められた内規等による事項を遵守したということだけで、その業務上の注意義務をつくしたものと即断すべきではなく、いやしくも、踏切警手として踏切道における危険の発生を防止するのに、可能な一切の注意義務をつくすべきであるといわなければならない。

ところで、被告人村田は、判示認定のように、列車の踏切通過に際しては、適宜交通信号灯の切りかえや、遮断機閉鎖の措置を講ずべき業務を担当していたのであるから、この義務を全うするためには、列車の接近をとくと確認しなければならないことを要し、被告人村田が、同詰所内に設置してある列車接近表示器の作動を見守り、または相番からの列車接近の合図に依頼すること等は、すべて、自己のつくすべき列車接近を確認するための手段方法にほかならないものと知るべきである。

しかも、被告人村田は、同詰所内所定の位置において、反射用鏡を介し、もしくは直視することによつて、北方線路上二百米余の先を注視することができたのであるから、殊に過去において、再々故障を来しその作動をみなかつたことのある列車接近表示器や、相番の合図に依頼し過ぎた結果、その余の、右のように可能な方法による注視義務をつくさなかつたため列車接近を確認し得なかつたことについて、過失の責を免れることはできないものといわなければならない。

被告人両名に対し、それぞれ踏切警手としての業務上の過失を認めたゆえんである。

過失犯の共同正犯について

過失犯に共同正犯の成立を認めるべきかどうかについては、判例・学説とも、これを積極的に解するものと消極的に解するものとがあつて、いまだ一義的には解決されていないようである。

消極説のうち、従来の幾つかの判例は、単に、過失犯には共同正犯を認めるべきでない旨を判示するにとどまり、その理論的根拠についてはこれをつまびらかにしていないが、学説としては、共同正犯の本質的特徴をもつて主観的なものであるとし、各共同者が相互に「補充し合う行為によつて一つの結果に到達しようとゆう決心が共同正犯の綜合的要素であり、独自の特徴である」とし、「この心理的状態(相互的理解)は故意的行為について存在するに過ぎない」から、「共同正犯は故意を前提とする」ものであつて、「過失犯の共同正犯は考えられない。」といい「何かを共同して企てるとゆう観念は過失的共同動作とも結びつくが、結果を共同して引起そうとゆう部分行為を含む決心は、過失的共同動作と結びつくものではない」とし、結論として「数人が過失によつて構成要件に該当する結果を引起す場合は数個の過失犯として取扱われる」べきであるとされ、注目すべき議論を展開しているものがある。

しかし、そもそも共同正犯を定めた刑法第六十条は、必ずしも故意犯のみを前提としているものとは解せられない。のみならず、共同者がそれぞれその目的とする一つの結果に到達するために、他の者の行為を利用しようとする意思を有し、または、他の者の行為に自己の行為を補充しようとする意思を有しておれば、そこには、消極論者がいわれるような共同正犯の綜合的意思であり、その独自の特徴とせられるところの決意も、共同者相互に存在するとみられ得るのであるから、これ等の決意にもとづく行為が共同者の相互的意識のもとになされるかぎり、それが構成要件的に重要な部分でないとしても、ここに過失犯の共同正犯が成立する余地を存するものと解するのが相当である。最高裁判所昭和二十八年一月二十三日第二小法廷判決が、過失犯に共同正犯の成立を認めたのも、これを忖度すれば、右とその趣旨を同じくするものと思われる。

そこで本件についてみるに、すでに縷述したように、被告人阪口は、相番として列車接近の確認につとめ、これを確認したときは本番である被告人村田にその旨を合図し、且つ、交通信号灯の切りかえや遮断機閉鎖の時期をも合図によつて知らせること等を分担し、被告人村田は、本番として列車接近表示器の作動を見守り、または相番からの合図によつて列車接近の確認につとめ、これを確認したときは相番である被告人阪口にその旨を合図し、且つ被告人阪口からの合図によつて、交通信号灯の切りかえや遮断機閉鎖の措置を講ずること等を分担し、もつて、被告人両名が相互に協力して踏切道における交通の安全を確保することにつとめていたのであるから、被告人両名のそれぞれの注意義務をつくすことによつて一つの結果到達に寄与すべき行為の或る部分が、相互的意識のもとに共同でなされたものであることは、優にこれを認めることができる。

従つて、本件はこの点において、被告人両名の過失犯について共同正犯の成立を肯定すべきである。

以上のような理由により、主文のとおり判決した次第である。

(裁判官 橋本盛三郎)

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